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報恩寺について
760年の歴史を誇る臨済宗の鎌倉建長寺派の
由緒あるお寺です。(開山忌 3月6日)
生かされているあなたの命を大切に…
真心こめて御供養いたします
恩に報いる寺と書きまして報恩寺。
御先祖様あってこそ、今のあなたがあります。
あなたのされた良い事は必ずあなたの所へと返ってくると
いわれております。
文化の発展に伴い、せわしない時代だからこそ、
ご自分のお心を見つめ直しに、
自然豊かな報恩寺にて御供養をどうぞ。
25世報恩寺住職 伊藤賢山 合掌
- 本堂
- 本堂内観
報恩寺の歴史
本尊 薬師如来像 (行基作)
天徳寺了伯が日頃から深く信仰していたもので、
そのために威武大いに輝き、剛敵をも破り佐野家が
再興できたとされています。了伯は供養料として
毎年米70石を寄進していたといわれています。
薬師如来は、またの名を医王如来ともいい、
医薬兼備の仏様です。
東方の浄瑠璃世界に住み、
応病与薬(おうびょうよやく)の法薬で、
苦を抜き楽を与えて下さる抜苦与楽(ばっくよやく)の
仏様なのです。
また、49日忌の裁判の時の守護仏であります。
- 本尊様
開基 佐野義基
勧請開山 栄西 元久元年(1204)
木曽義仲の子、清水冠者義高が落ち延びて佐野家に仕え、名を佐野(岩崎)越前守義基と改め、
父祖の霊を弔う為に寺を建て、栄西を招請して開山とし、如法寺と称したといわれています。
21世三伯玄伊和尚の代に、妙光山報恩寺と改めました。
住職は代々鎌倉建長寺の隠居が務めていたといわれており、格式のある寺でした。
天正19年(1591)に天徳寺了伯が、母(赤見丹波守義政の娘)の菩提を弔うため自ら大願主と
なって中興しました。この時の住職が福源山古溪籐和尚であり、徳川幕府から19石7斗の朱印地を
いただいており、末寺8ヵ寺を持つ大きな寺院でありました。
寛政年間(1789~1801)までは、広い境内に堂塔が林立していたといわれますが、その後
寛政・嘉永年間2度の火災に遭って焼失し、その後再建された桃山式建築の本堂も
平成6年に不慮の火災で焼失しています。現在の本堂は平成10年に再建されたものです。
天徳寺宝衍(ほうえん)《佐野房綱(ふさつな)》について
天徳寺宝衍(佐野房綱)は、「天徳寺宝衍考」「田沼町史」
によれば、佐野昌綱(あきつな)の弟とされている。
(「佐野宗綱記」「下野国史」「佐野系図」によれば
昌綱の次男)
元禄3年(1560)に仏門に入り、天徳寺了白(宝衍)と号し、
剣豪法師として知られています。
天正8年(1580)、諸国を回った後に豊臣秀吉に仕えます。
小田原の北条氏との戦いにおいては先鋒として
軍功を立てました。
天正18年(1590)、秀吉より佐野領3万9千石を
安堵され、同年8月に唐沢山城に戻り、名を房綱と改めて
城主となりました。
そして文禄2年(1593)には秀吉の寵臣であった
富田知信の五男(又は次男)佐野信吉を養子として迎え入れ、
家督を譲り隠居したのです。
慶長6年(1601)、54歳(44歳説あり)で死没。
遺言によって、報恩寺に葬られました。
現存の大きな墓塔は寛政3年(1750)の150年忌に遺徳を
偲んで旧臣の子孫が建てたものです。
平成9年10月3日指定 佐野市指定史跡
- 天徳寺の墓近影